11月半ばに、ネズミ?に葉を食べられた?と思われる、カランコエ。
葉っぱは全部なくなり、茎だけが土の上に棒のようにひょろんと立っていたのだけど、今月に入ってから、茎の途中に、小さな葉が顔を出した!
今度は食べらてなるものか!と、夏場、裏庭でリスに効果のあった「ウッドチップの柵」を周囲に張り巡らしてある。
この小さな小さな丸い葉の様子を眺めるのが、毎朝の楽しみ。
一度は今までの葉っぱを全部もぎ取られながらも、残った茎から新しい葉を出し、また小さな葉から成長を始めていく、この姿。
今までの自分に、全て一旦終止符を打ち、まるで生まれ変わったかのように、みずみずしい葉っぱを、何も言わずに出す、この姿。
まるで、「だって、もう茎があるんだから、地面から芽を一から出すよりは、お日様の光も受けやすいし、楽勝楽勝」と笑っているかのようである。
細胞は活動を続け、時と共に新しく生まれ変わっている。
この残った茎でさえも、その中では、常に変わり続けていて、もはや昨日と同じではない。
植物は、こんなことを、何も言わずに飄々とやってのける。
人間の体も、毎日同じようでいて、体は常に活動を続けていて、常に変わり続けている。
昨日と全く同じ体など、誰一人いない。
でも、人間が、やっとのことで大きく広げた葉を、不本意にも、全てもぎ取られてしまったら、どうだろうか?
体内では活動は続いていて、新しい葉を出す準備をせっせと整えているにも関わらず、肝心の心を切り替えることは容易ではなく、いつまでも、もぎ取られたところにとどまり、深く深く沈んでいき、身動き取れず、新しい小さな葉を出すことができないかもしれない。
せっかく広げた葉っぱがもうない、ということばかりに目が向いて、残っている茎には気づかないでいる。
カランコエのように、新しくまたスタートするということは、なかなか人間にとっては容易ではない。
でも、、、、
すでにもう地面から出たばかりの芽ではなく、生き延びていくことのできる茎と、そして見えないところにしっかりと張り巡らされた根が、確かにある。
すでに根が広がり、茎もあるところからの、出発は、かえって有利ととらえられないか?
生まれ変わったと思って頑張る。
生まれ変わったと思って挑戦する。
…というのは、壮絶な体験をした人、全てを失った人だけが得られるチャンスだと思っていたけれど…そうではないのかもしれない。
どんな前向きな人であっても、誰しも、一度は、ふとした瞬間に、
「もっと技術があったなら」
「もっと知識があったなら」
「もっと学歴が高かったなら」
「もっと経験があったなら」
「もっと勉強できたなら」
「もっと英語が話せたなら」
「もっと上手にできたなら」
…と「もっと…だったなら」と思ったことはあるのではなかろうか?
「もっと…だったなら」と思うその時、いつでも、誰にでも、生まれ変わるチャンスはあるのかもしれない。
今ある体と、今までの経験と、すでに持っている知識と技能と体力が、確かにある、という事実を考えると、「それだけのものを持って、”今”生まれてきたのだ」と思えば、すでに自分が得ている経験・知識・技能・体力は、生まれ持った能力のようにも思えてくる。
それは、たとえ、ありきたりな経験であっても、つたない知識と技能であっても、わずかな体力であっても…本当の本当の何もないゼロに比べれば、とんでもなくゼロからはかけ離れた、相当の代物であるのだから。
この新しい、小さな小さな葉っぱを見ながら、毎朝、こんなことを考えたりしては
「私は、まさに今日、能力をどっさり持って、生まれてきたのだ」
と一人、いい気分になるのである。。。